名古屋まつり (なごやまつり)
毎年10月上旬(一部の年に例外あり)の土・日曜日に愛知県名古屋市内で開催

される祭り。
1955年(昭和30年)に「名古屋商工まつり」として第1回が開催された。当時とし
ては全国では珍しい商業祭であった。当初から名古屋市電を利用した花電車が
運行され、1973年(昭和48年)の全線廃止まで続いた。また、1966年(昭和41年)
の第12回には花バスが初めて登場し、2005年(平成17年)まで運行されていた。
祭り最大の見せ場である郷土英傑行列では、それぞれ愛知県出身者の織田信長・
豊臣秀吉・徳川家康らに扮した名士らが名古屋駅から名古屋城までパレードを
行う。
三英傑は一般より公募され、このうち信長については馬に跨る事ができる者が
条件となっている。また、三英傑に随伴する三姫(濃姫・ねね〈以前は淀殿〉・千姫)
は名古屋市内の各デパート(2018年(平成30年)以降は三越・ジェイアール名古屋
タカシマヤ・松坂屋)の女子店員から選出される事になっている。
三英傑を経験した者の集まりである「英傑会」も組織されている。

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、
戦国大名。三英傑の一人。
 
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。
尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家
の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけた。
家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。
足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放して、畿内を中心に独自の中央政権
(「織田政権」を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国
乱世の終焉に道筋をつけた。しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智
光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。
すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、政権は瓦解した。

これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと
引き継がれていく、画期的なものであったとみなされてきた。しかし、政策の実態などか
ら「中世社会の最終段階」ともしばしば評され、特に2010年代の歴史学界では信長の
革新性を否定する研究が主流となっている。


                    百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし ) 
または 羽柴 秀吉 (はしば ひでよし)は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての
武将 、 大名 。 天下人 、(初代)武家 関白 、 太閤 。 三英傑 の一人。
初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称した
ように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から
豊臣氏を賜姓されて本姓とした。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。当初、今川家に仕えるも出奔した
後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれる
と「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して
織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣
に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。
天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で
国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長
の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。
秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。
慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。
 
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが
機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一
の出世頭」と評される。

                


徳川 家康(とくがわ いえやす) 
または松平 元康 (まつだいら もとやす)は、 戦国時代 から 安土桃山時代に
かけての 武将 ・戦国大名 。江戸幕府 の初代征夷大将軍 。
三英傑 の一人。「 海道一の弓取り」の異名を持つ.家系は三河国の国人土豪・
松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。
諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏か
ら独立した際に「元」を返上して家康に改める。
勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的
には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅く
とも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。
 
幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごす。永禄3年(1560年)、
桶狭間の戦いでの今川義元の討死を機に今川氏から独立して織田信長と
同盟を結び、三河国・遠江国に版図を広げる。

 
信長が天正10年(1582年)に本能寺の変において死亡すると天正壬午の乱を
制して甲斐国・信濃国を手中に収める。
 
信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙するが秀吉
に臣従。小田原征伐後は後北条氏の旧領関東への転封を命ぜられ豊臣政権
下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる。

秀吉没後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いにおいて西軍に勝利。
慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。
慶長20年(1615年)に豊臣氏を滅亡させ日本全国を支配する体制を確立。
15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代・
安土桃山時代)が終結。
 
家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は後に幕藩体制と称さ
れ264年間続く江戸時代を画した。
 
死後は日光東照宮に祀られ薬師如来を本地とする東照大権現(とうしょうだい
ごんげん)として神格化され、「神君」「東照宮」、権現様」(ごんげんさま)とも呼
ばれて信仰される。また、江戸幕府の祖とし「神祖」、「烈祖」「などとも称された。

                
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