佐賀城本丸(さがじょうほんまる)

佐賀県佐賀市にあった日本の城。古名は佐嘉城。別名、沈み城、亀甲城。
江戸時代初頭に完成し、外様大名佐賀藩鍋島氏の居城であった。

佐賀城は佐賀市の中心に位置し、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城である。
幅50m以上もあるは、石垣ではなく土塁で築かれている。平坦な土地にある
ため、城内が見えないように土塁にはマツクスノキが植えられている。
城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、
攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになって
いたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。また城郭と城下町の完成予想図と思
われる「慶長御積絵図」とは異なる部分が多く、厳密には未完成の城である。

江戸時代には、城下と城内に掘割が縦横に張り巡らされ、生活用水に使用され
ていた。また、城下には豊前小倉から長崎まで続く長崎街道が通り、宿場町
しても栄えた。

明治時代初期に起こった佐賀の乱により大半の建造物は焼失し、鯱の門と続櫓
のみが残っており国の重要文化財に指定されている。
享保11年に焼失した天守小倉城並みか、それよりわずかに大きい規模では
ないかと最近の調査で推測されている。

現在、城跡は佐賀城公園として整備され、本丸周辺は東堀や土塁が復元され
往時の姿を取り戻しつつあるほかは、佐賀県庁、合同庁舎、放送局、美術館、
博物館、小中高の各学校など公共施設が建ち並んで佐賀県政治経済の中心
地となっている。


                フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


鯱の門 天保9年(1838)当時の姿を残す佐賀戦争の銃弾後
     も残っている

        佐賀城本丸の建物配置模型

          佐賀城本丸の木組みの模型

          本丸の正面玄関

              廊下(畳敷き)

日本の近大化に貢献した先人達の活躍を振り返り、世界的視野で、
常に世の中を見つめていたその精神を学び、時代の息吹を感じて
下さい。


    一之間 (殿様が謁見する場所)

   一之間〜四之間を合わせると320畳、 
   千人の家臣が公式行事に集った。

     説明員による案内  (ボランティアの人達)

佐賀藩(36万石)
江戸時代の佐賀藩は、外様各藩の中でも、8番目の石高を誇り、藩祖鍋島直茂
から11代直大まで260年もの長きにわたり、安定した藩政が行われた。
 

   屯之間 家臣が集まり、控えの場所として使われていた

御座間・堪忍所(佐賀市重要文化財)
1838 (天保9年)に、10代藩主鍋島直正により建設され、藩主の居間
として利用された建物です。
1958(昭和33年)に、佐賀市南水ケ江地区の大木公園に移築され、
公民館として利用されていましたが、佐賀城本丸歴史館の建設に際し、
再度この場所に移築しました。
今回の再移築にあたっては、建設当初の姿を忠実に復元するために、
柱などの部材のうち使用できるものは元の位置に戻しています。


         御座間 藩主鍋島直正の居室

         大名行列の模型
  
アームストロング砲
アームストロング砲は、幕末に佐賀藩が保有していた後装施条砲です。
イギリスのストロング社でせいぞうされ、長崎にいた商人グラバーらを仲介
として輸入しました。
成辰戦争では上野や奥羽の戦いで用いられ、「佐賀の大砲」として威力
を示しました。


 アームストロング砲               蒸気船
    昔の箱型カメラ            蒸気機関車

              昔の製鉄の様子

                  
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