清洲城 2

この城と建物は、平成元年(1989)、旧清洲町の町制100周年を記念して、城が
実在した当時の外観や規模を想像しながら建設され、長らく町民に親しまれた
「清洲」の字を宛てて「清洲城」と命名されました。
また、「天主閣」の表記に関しては、現在通常使われる「天守閣」の語源に様々
な説があり、「殿主」「殿守」「天主」などの表記が確認されていますが、信長公
の事績を記した「信長公記」に「天主」と表記されていることから、「天主閣」の字
を宛てることにしました。
しかしながら、この城や地名は、歴史的には長く「清須」の字を宛てられており、
明確な基準が存在しなかった時代には同時代においても「清須」「清洲」が併行
して使用されている例もあります。
また、「天主閣」に関しても歴史的記述に関する限り、一般名要である「天守閣」
を用いるのが適当であるとの判断をいたしました。

清須会議 
清須会議が開かれた段階では、織田信長の血縁者として『織田信雄・神戸信孝・
三法師(織田信忠の嫡子)』が残っており、この三人の中から家督相続者が選ば
れることになっていました。
柴田勝家は信長三男の神戸信孝を、羽柴秀吉は信忠嫡子の三法師(織田秀信)
を推しました。
清須には織田信雄(のぶかつ)・神戸信孝・滝川一益らも集まっていましたが、
信長の後継者(織田家の家督相続者)を決める清須会議に出席していたのは、
羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興であり、この4人を清須会議四宿老と
いいます。
 
丹羽長秀が秀吉の『長子相続の筋目論』を支持したことで三法師(織田秀信)が
信長の正統な後継者に決まりました。
神戸信孝が主君になれば烏帽子親を務める柴田勝家の影響力は増していたと
考えられますが、結局、秀吉の親しかった織田信忠の幼少の嫡子・三法師(さん
ぽうし)が家督を継ぐことになったのです。

       フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

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