赤間神宮  (下関市阿弥陀寺町)
                    
紅石(べにいし)山の南麓に鎮座。眼下に関門海峡を望む。祭神は、安徳天皇。
旧宮幣大社。
朱色の水天門を北にくぐると、左から水天供養塔(十三 重石塔三基)本殿・
大連神社・日本西門鎮守八幡宮の社殿が並ぶ。すべて南面。境内西側
には安徳天皇陵がある。
もと真言宗寺院で聖衆山阿弥陀寺と称した。明治初年阿弥陀寺を廃し、
安徳天皇陵に建立されていた御影堂を中心とした天皇社とし、さらに明治
八年(1875)社号を赤間宮と改め、同9年紅石山の麓を拡張して社殿を造営、
昭和15年(1940)宮幣大社となり社号を赤間神宮とした。
阿弥陀寺は「豊府志略」に「開基河内国行教和尚貞観元己卯年草創也」
とあり、同書によれば行教は霊夢により宇佐八幡(現大分県宇佐市)を勧
請して寺中に安置、鎮守八幡としたという。その後の変遷はつまびらかで
ないが、寿永4年(1185)3月源平壇ノ浦合戦の時入水した
安徳天皇はここに葬られた。翌年、勅願寺として(尼命阿(建礼門院乳母の
女少将局)に追福に当たらせたと伝える。先帝祭は毎年5月2〜4日に
赤間神宮で行われる。

特に豪華絢爛な女藹道中が行われる5月3日は最高潮に盛り上がる。
源平合戦の姿でパレード

   春帆楼 (下関市阿弥陀寺町)
   春帆楼の名前は初代総理大臣伊藤博文が付けたものだそうです。
   明治28年3月、日清講和条約の会場選びは、長崎、広島など幾つかの候補地が
   あげられていましたが、1週間前になって伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表し
   て決定しました。
   この談判は、世に「下関条約」と呼ばれていますが、わが国で地名のついた条約
   はここと「下田条約」くらいのものでしょう。


日清講和記念館

この記念館は、日清講和会議に使われた調度品類や貴重な資料などを公開するため、
昭和12年に開館されました。
展示品の中でも特に椅子類はかっての浜離宮(東京)の調度で、ランプ、ストーブ硯箱、
インク壷、朱肉入れなどと共に、講和会議の様子を今に伝える貴重な歴史資料です。
明治28年(1895)に、隣接する春帆楼を会場に行なわれた日清講和会議は世界の
外交史に残るもので、日本全権弁理大臣伊藤博文と清国講和全権大臣李鴻章の2人
を中心に両国の代表11名が列席し和議交渉を行ないました。
なお、この交渉の途中で、清国講和全権李鴻章が暴漢によって狙撃され、負傷すると
いう事件も発生しました。   (下関市教育委員会)

   壇の浦古戦場跡 (下関市御裳川町)

関門海峡でくり広がれた、壇の浦古戦場跡に源氏・平家の像が設置され当時を
偲んで多くの人々が訪れています。


寿永4年(1185)3月24日源義経は、ここで平家を全滅させた。御年わずか8歳の
安徳天皇は按察使局(あぜらのつぼね)にいだかれ、二位の尼は神璽(しんじ)と
宝剣を持ってともに入水した所である。

源氏と平家両軍の戦闘は寿永4年3月24日の早朝から開始された。
始めは平家の旗色がよく、義経の船をめざして殺到した。
その攻勢に圧迫され、幾たびか危機に逢つたが、源義経は一計を案じ、全軍に
命じて敵の水手・舵取りをねらい征矢を集中した。
平家方はこの奇襲によって漕手を失い、方向が定まらず、第一・第二陣とあいつ
いで戦場を離脱した。
さらに午後になると、海峡の潮流は外海にむかって西に変わり、源氏方はこの潮
に乗って平家一門の船団に肉迫した。
平家は敗れて壇ノ浦に追いつめられ、御裳川の沖合で全滅した。
平宗盛・清宗父子は死におくれて生捕りになったが、経盛・教盛・知盛・資盛・
有盛・行盛以下、平家一門は入水して、ここで最期をとげた。
とくに幼帝の入水の模様を聞かれた後白河法皇は深く御心をなやまされ、やがて
その菩提を弔うために、檀の浦のちかくに阿弥陀寺が建立された。
明治になって寺号を廃し、赤間官(現在は赤間神宮)と改めた。


 毎日 壇の浦古戦場の紙芝居が行われ多くの人が集まってくる
長州砲(八十斤加農砲) (下関市 みもすそ川公園)

文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回に
わたって砲撃しました(攘夷戦)翌年8月、アメリカ・イギリス・オランダの四国連合
艦隊17隻が報復のため下関にやってきました。
海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割
を果たしましたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊されました。
外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕へと転換し、明治維新を実現
する言動力となりました。


天保製長州砲
幕末、関門海峡での6次にわたる攘夷戦は、元治元年(1864)8月、長州藩兵と英・
仏・蘭・米4カ国連合艦隊との交戦をもって終結したが、同時にこれは明治維新の
具体的始動につながった。この歴史的事件で下関海岸砲台に装備された長州藩
の青銅砲は、すべて戦利品として外国に運び去られ国内から姿をけしていた。

1966年春、東欧中の作家古川薫氏がパリ・アンヴァリット軍事博物館に保管さて
いる攘夷戦長州砲を発見、以来返還運動が進められたが実現困難のところ、郷土
出身の外務大臣安倍晋太郎氏の努力フランス政府の好意によって1984年6月、
貸与の形式で里帰りを見るに至った。この機会に下関東ロータリークラブでは、
フランス政府の了解を得、創立20周年記念行事として、これを原寸大かつ精密に
模造し下関市に寄贈した。
同長州砲は天保15年(1844)萩藩の鋳砲家郡司喜平治信安の手になるもので、
幕末日本人の対外危機感を象徴する歴史的逸品である。鎖国に眠っていた日
本史がようやく世界史に組み入れられる瞬間を目撃したこの物言わぬ証人を、
海峡のほとりへ永久に安置しようとするのは、歴史に富むこの地の発展と世界平
和を祈念する趣旨にほかならない。

長州藩の青銅砲


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