長府毛利邸 (下関市長府惣社町)
長府毛利邸は、長府毛利14代当主毛利元敏公が、東京から帰住するため、
この地を選んで建てた邸宅で、明治31年(1898)に起工し、明治36年6月2日
に完成した後、大正8年(1919)まで長府毛利家の本宅とし使用されました。
その間、明治35年11月には、明治天皇が、熊本で行われた陸軍大演習を御
視察の際、当邸を行在所として使用されネ一部の部屋は当時のまま残され
ていて、往時を偲ばせてくれます。

また津軽家に嫁がれ、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様(元
敏公のお孫さんにあたる)も、このお屋敷で幼少時代を過ごされています。
邸内にある庭園はね池泉回遊式で苔・石・池・楓・灯篭など配置の妙は、新緑
の季節や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした日本庭園のたたずまい
を感じさせてくれます。

          
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功山寺 
下関市大字豊滴村功山寺長府地域の西部にあり、総門をくぐると 
左に地蔵堂、坂を登ると三重門の山門があり、前方に仏殿がある

右に法堂と鐘楼、仏殿の裏には長府藩主の墓所がある曹洞宗で
金山と写し、本尊は釈迦如来「豊府志略」によれば嘉暦2年1327
虚庵玄寂により開創され、当時は臨済宗で長福寺といった。
 
弘治三年1557)大内義長の自刃の場となってから戦乱で荒廃したが、
のちには180石4升8合の寺領を与ぇられている毛利氏八ケ国時代分
限帳)。
慶長七年1602年長府藩初代藩主毛利秀元が修理を加ぇ、
曹洞宗に改宗した。
慶安三年1650秀元が死去、その法号智門寺殿功山玄誉大居士に
ちなみ功山寺と改称
 し、長府毛利氏の菩提所とした。
年代不詳であるが寺社奉行諸控「長府史料」所収}の「功山寺支配
並末寺」には、塔頭寺の蔵海軒・江雪庵・月渓院や隠寮の白繭軒
ほか末寺11ヵ寺がある。
 
元治元年1864政変で都を追われた七卿のうち三条実美以下五人が、
同年11月から翌年1月大宰府に移るまで当寺に滞在し、一二月15
日の夜、高杉普作がこの五卿を前にして長州藩の藩論統一のため
挙兵した(防長回天史)。
 
仏殿裏の墓所には、長府藩初代秀元・五代元矩・九代匡満・
10代匡芳・2代元義・3代元運・表代元敏・15代元雄・16代元匡を
はじめその正室や側室などの墓碑がある。
 
功山寺仏殿は国宝で嘉暦2年の創建といわれるが、内陣柱上部 
「此堂元応2年卯月:五日柱立」の墨書がある。
 
二重屋根の化粧たるきは放射状に配置されていて扇垂木と称し、 
入母屋造の屋根は曲線を描き、唐様建築の特徴をみせる。
 
ほかに県指定有形文化財として木造地蔵菩薩半跏像がある


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                高杉晋作像
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